生徒と接していると「優しい」とか「いじわる」という言葉をよく耳にする。
彼らが言う優しいは、得てして、「今」や「助けてくれる」にスポットが当たっているように感じる。
目の前の刹那的な困難を切り抜ける道具が優しさ?
本当にそうだろうか?
道を歩いていて、見知らぬ人に道を聞かれ、道を教えること。
これもそうゆう意味では、生徒たちの言う優しさかもしれない。
でも、この場合はこれでいいはずだ。
「今、教えるとあなたのためにならないから、教えられません。」
なんていう人は、さすがにちょっとズレているのでは?と感じてしまう。
長く一緒にいる関係だからこその優しさ。
それは、「今」や「助けてくれる」とは正反対の「先」や「見守る」こと。
言うなれば、自転車の補助輪のようなものかもしれない。
自転車に乗れない子が1人で、補助輪無しで自転車の練習をするのは難しい。
倒れたら、痛そうだ。けがをするかもしれない。
そんな恐怖心があるから、思い切ってペダルを漕ぐことが出来ない。
補助輪があるとどうだろう。
倒れそうになったら、補助輪が支えてくれる。
補助輪があると分かっているから、思いっきりペダルをこげる。
でも、もしも倒れたら・・・という恐怖心を拭うのは、自分自身。
実際に倒れそうになったときだけ、補助輪が支えてくれる。
補助輪は自分の代わりにペダルを漕いではくれない。
常に側で見守り、漕ぎ続ける勇気を与えてくれるだけだ。
でも、それでいいんだと思う。