私たちは、第二次世界大戦から二十年たった今、直接被害のないベトナムの戦いを見て、私たちが失ったもの、その悲しみを新たに考えることが、必要だと思います。
これは、私が経験したことです。
第二次世界大戦が終わり、多くの日本の兵士が帰国してくる復員の事務についていた、ある暑い夏の日の出来事でした。
私たちは、毎日毎日訪ねてくる留守家族の人々に、あなたの息子さんは、御主人は亡くなった、死んだ、死んだ、死んだと伝える苦しい仕事をしていた。
留守家族の人々の多くは、ほとんどやせおとろえ、ボロに等しい服装が多かった。
そこへ、ずんぐりふとった、立派な服装をした紳士が隣の友人のところへ来た。
隣は、ニューギニヤ派遣の係であった。
その人は、
「ニューギニヤに行った、私の息子は?」と、名前を言って、たずねた。
友人は、帳簿をめくって、
「あなたの息子さんは、ニューギニヤのホーランジヤで戦死されておられます。」と答えた。
その人は、その瞬間、眼をカッと開き口をピクッとふるわして、黙って立っていたが、くるっと向きをかえて帰っていかれた。
人が死んだということは、いくら経験しても、又くりかえしても、慣れるということはない。
いうこともまた、そばで聞くことも自分自身の内部に恐怖が走るのものである。
それは意識以外の生理現象を起こす。
友人は言った後、しばらくして、バタンと帳簿を閉じ、頭を抱えた。
私は黙って、便所に立った。
そして階段のところに来た時、さっきの人が、階段の曲がり角の広場の隅のくらがりに、白いパナマの帽子を顔に当てて壁板にもたれるように、たっていた。
瞬間、私は気分が悪いのかと思い、声をかけようとして、足を一段階段に下ろしたとき、その人の肩は、ブル、ブル、ふるえ、足もとに、したたり落ちた水滴のたまりがあるのに気づいた。
その水滴は、パナマ帽からあふれ、したたり落ちていた。
肩のふるえは、声をあげたいのを必死にこらえているものであった。
どれだけたったかわからないが、私はそっと、自分の部屋に引き返した。
次の日、久しぶりにほとんど留守家族が来ないので、やれやれとしているときふと気がつくと、私の机から頭だけ見えるくらいの少女が、チョコンと立って、私の顔をマジ、マジと見つめていた。
私が姿勢を正して、なにかを問いかけようとすると、
「あたし、小学校二年生なの。おとうちゃんは、フィリッピンに行ったの。おとうちゃんの名は、○○○○なの。いえには、おじいちゃんと、おばあちゃんがいるけど、たべものがわるいので、びょうきして、ねているの。それで、それで、あたしに、この手紙をもって、おとうちゃんのことをきいておいでというので、あたし、きたの。」
顔中に汗をしたたらせて、一いきにこれだけいうと、大きく肩で息をした。
私はだまって机の上に差し出した小さい手から葉書を見ると、復員局からの通知書があった。
住所は、東京都の中野であった。
私は帳簿をめくって、氏名のところを見ると、フィリピンのルソンのバギオで、戦死になっていた。
「あなたのお父さんは――」
といいかけて、私は少女の顔を見た。
やせた、真黒な顔、伸びたオカッパの下に切れ長の長い眼を、一ぱいに開いて、私のくちびるをみつめていた。
私は少女に答えねばならぬ。答えねばならぬと体の中に走る戦慄を精一杯おさえて、どんな声で答えたかわからない。
「あなたのお父さんは、戦死しておられるのです。」
といって、声がつづかなくなった。
瞬間少女は、精一杯に開いた眼を更にパッと開き、そして、わっと、べそをかきそうになった。
涙が、眼一杯にあふれそうになっているのを必死にこらえていた。
それを見ているうちに、私の眼が、涙にあふれて、ほほをつたわりはじめた。
私の方が声をあげて泣きたくなった。しかし、少女は、
「あたし、おじいちゃまからいわれて来たの。おとうちゃまが、戦死していたら、係のおじちゃまに、おとうちゃまの戦死したところと、戦死した、じょうきょう、じょうきょうですね、それを、かいて、もらっておいで、といわれたの。」
私はだまって、うなずいて、紙を出して、書こうとして、うつむいた瞬間、紙の上にポタ、ポタ、涙が落ちて、書けなくなった。
少女は、不思議そうに、私の顔を見つめていたのに困った。
やっと、書き終わって、封筒に入れ、少女に渡すと、小さい手で、ポケットに大切にしまいこんで、腕で押さえて、うなだれた。
涙一滴、落とさず、一声も声をあげなかった。
肩に手をやって、なにかいおうと思い、顔をのぞき込むと、下くちびるを血がでるようにかみしめて、カッと眼を開いて肩で息をしていた。
私は、声をのんで、しばらくして、
「おひとりで、帰れるの。」
と聞いた。
少女は、私の顔をみつめて、
「あたし、おじいちゃまにいわれたの、泣いては、いけないって。おじいちゃまから、おばあちゃまから、電車賃をもらって、電車を教えてもらったの。だから、ゆけるね、となんども、なんども、いわれたの。」
と、あらためて、じぶんにいいきかせるように、こっくりと、私にうなずいてみせた。
私は、体中が熱くなってしまった。
帰る途中で、私に話した。
「あたし、いもうとが二人いるのよ。おかあさんも、しんだの。だから、あたしが、しっかりしなくては、ならないんだって。あたしは、泣いてはいけないんだって。」
と、小さい手をひく私の手に、何度も何度も、いう言葉だけが、私の頭の中をぐるぐる廻っていた。
どうなるのであろうか、私は一体なんなのか、何が出来るのか?
戦争は、大きな、大きな、なにかを奪った。
悲しみ以上のなにか、かけがえのないものを奪った。
私たちは、この二つのことから、この悲しみから、なにを考えるべきであろうか。
私たちはなにをなすべきであろうか。
声なき声は、そこにあると思う。