中学受験の合格は、算数の出来不出来に大きく左右されますし、
各学校の先生にお話をうかがっても、
(大っぴらにはおっしゃいませんが)算数のできる子に来て欲しいと
考えている様子が見受けられます。
それは入試問題の配点が、算数や国語が高めで
社会や理科は低めの学校が多い(傾斜配点)ことからも明らかであるように思います。
(関西のいくつかの学校では、算・国・理の3教科受験で、
社会は受験科目に入ってさえいません)
算数は、一番目に見えて出来不出来がわかりやすい科目でもあるので、
そこに危機感を持たれている方はとても多い印象です。
一方で算数と同じ配点の科目がもう1つあります。
そしてそれは全ての科目の、いえ科目の垣根を越えて、
生きていく上での全てに通じる基礎となる教科です。
そう、国語です。
にもかかわらず、国語はその力が目に見えにくい教科であるせいか、
勉強した効果がすぐに出にくいからか、あるいは日本人だから
(そうは言っても国語くらいできるだろう)という妙な安心感があるからか、
後回しにされがちな教科です。
国語を好きでなくても好きであっても、
国語力というものへの危機感はなかなか持てないようです。
「ウチの子は本を全然読まないんですけど、大丈夫でしょうか?」
などと聞かれることも多いです。しかし当然大丈夫なわけはありません。
その時々に読むべき本に触れていた子には、本を読まない子は勝てません。
また「本を読むのが昔から好きだから、国語はやらなくても大丈夫。」
というようなことをおっしゃる方がいます。
しかし、よっぽどの天才でもない限り当たり前ですが、
「やらなくても大丈夫」なわけはありません。
どんなに国語が好きな子でも、どんなに得点感覚に優れた子であっても、
弱いところはあるものです。
4年生や5年生の前半までは何となくこんな感じかな?(センス)で
スイスイ解けていた国語であっても、
5年生の中盤にかけて難しさのステージが1つ上がり、
そこから6年生の夏頃までに1つ2つ…と上がっていくような、
そういう面が中学受験の国語にはあります。
ところが、この難しくなっていく変化の過程が、普通の人、
特にたまにしか国語に触れていない人ではわからないのです。
4、5年生までたいして努力もせずにそこそこ点数を取れていたのに、
6年生近くなって「あれ?最近国語が取れなくなってきた。」という子が必ず出ます。
それは、その子の実力が下がったというよりは、
その子のレベルが変わっていなかったとしても、
文章のレベルや問いのレベルが上がったので、
相対的にできなくなったように感じるということで、
冷たく言うなら6年生になるまでに積んでおくべき国語の勉強を
怠ったからにほかなりません。
ここでいう「6年生になるまでに積んでおくべき国語の勉強」は、
問題をどれだけ多く解いたかではありません。
模擬試験や塾内のテストで何点取ったかも、たいして重要ではありません。
もちろんテストの結果でクラス分けがおこなわれたり、
褒められたり叱られたりがあるわけですから、
悪いよりは良い方がいいでしょうけれど、
テストに慣れ過ぎると、型にハマって小さくまとまってしまうことは多分にあります。
自分の興味・関心の幅を広げたり深めたりする勉強と、
テストで点数を取る勉強は、必ずしもイコールではありません。
4、5年生までのうちに点数だけにこだわるのは、かえって危険であるともいえます。
また、栄光やフェリスといった学校の国語で問われている力は、
実は案外3年生や4年生の時に養うべき力であるように思います。
そういう意味でも、国語は後回しにしていてはいけないのです。
まずは「音読」を続けること。これに限ります。
そして意味がわからない言葉があったら「意味調べ」をしましょう。
語彙は意識して増やさないといけません。
そしてまた『うまい』文章を書けるようになるには、「書き写し」も有効だと思います。
こういった勉強方法は語学全てに共通するのではないでしょうか。
英語だって古典だって、これらの学習方法は必須だと思います。
当然母国語である国語もしかりです。
国語の勉強というと、ついつい問題を解かせたがる人がいますが、
国語を苦手とする子の多くは、
アウトプットに問題があるのではなくインプットに問題があります。
一見地味ですが、上記の3つ、
せめて最初に挙げた2つをバカにせずに続けてもらいたいと思います。