ここ数年、小学校低学年あるいは幼児期からの英語教育が
流行っているように思います。
グローバル化の進む社会に出ていくために、
早いうちから英語に慣れ親しんでおこうというものです。
その教育現場では、正しい英語を耳で覚えて欲しいということで、
ネイティブの先生、あるいは発音やイントネーションのきれいな先生に
教わりたいという声が多いようです。
それ自体が悪いわけではもちろんありませんが、だからといって
「あの先生の発音はきれいじゃないから、
あの先生に教わると正しい英語が身につかない。悪い癖がついちゃう!」
などと不満を口にするとしたら、それは残念なことです。
少し脇道にそれますが、実際問題、先生として信頼に足る人、
つまり教える技術が高い
+
人として温かい
+
大人として社会人として立派である(等々)
これらを兼ね備えた、それこそ完璧に近い先生がどれだけいるのかを考えれば、
その上発音もきれいな先生を採用するのは、とてもとても難しいと思います。
本場の発音ができるネイティブの人を雇うことはできても、
その人が先生に向いているかどうかは、また別の話です。
熱意があって子どもを想う気持ちがまっすぐで、
でも発音は日本人そのものという人が、発音だけで批判されるとしたら、
それは残念だなぁと思ってしまいます。
話を戻します。
オリンピックの東京招致を決めたといっても過言ではない
佐藤真海さんのスピーチを聞いて、
発音が美しいかどうかにこだわった方は、
おそらくあの場にはいなかったのではないでしょうか。
佐藤さんのスピーチが心に響いた理由は、
発音でもイントネーションでもありません。
間違いなく彼女の人間性に魅かれたからだと思います。
言葉はあくまでもツール(道具)でしかなく、そのツールを使うのは人間です。
言葉を発するその人の人間性が豊かでなければ、
発音がどんなに美しくても、人の心には届かないのだと思います。
それを少なくとも頭でわかっておくことは、大切なことだと思います。
本日、サーパス生のご父母を対象とした
洗足学園中学校説明会を開いていただきました。
説明会の途中では、アメリカの大学の話がありました。
アメリカの大学であれば、授業は当然英語でおこなわれるわけですが、
いわゆる入学試験の段階で、英語力を必要以上に重視はしないと言われるそうです。
もちろん最低限の英語力は必要でしょうが、
それよりも重視されるものの1つがエッセーと言われるものです。
このエッセーは、日本であれば就職活動の時に書く
自己アピール文に近いようです。
自分がそれまで一生懸命やってきたこと、
例えば学校行事や部活、委員会や生徒会、勉強あるいはアルバイト…
自分がポリシー(信念)を持って取り組んでいたことを、
論理的に人に伝える作業です。
しかし、部活を頑張ったとか大会で入賞したとか、
世の中を見渡せば同じくらい頑張った人は山ほどいるはずです。
その中で、自分が(他の人より)その大学に入りたいことをアピールするのは、
なかなか難しいことです。
他の人との差別化が必要です。説得力が必要です。
これは、英語だけ勉強していれば身に着く!という力ではないですし、
同様に国語や数学、社会や理科を勉強していればいいということでもないのです。
できれば小手先のテクニックでうまい文章を書けるようにしておくのではなく、
自分の中に深さを育んでおいて欲しいのだと思います。
洗足学園はグローバル化社会に人材を送り出すべく、着々と準備をしています。
それはもはや英語力がどうのこうの言っているレベルではありません。
出口としての大学進学を軽視することなく、
しかしそれは最終目的地ではないという、目先目先の取り組みではないところに、
学校の見据える未来があるのを感じられた説明会でした。