ルール(規則)や束縛が厳しいと、「自由になりたい!」と、人は思います。
中学生や高校生が「ウチの学校は厳しくて嫌!」なんて言うこともありますが、
じゃぁ極端な話、何もかもが全て自由だったらハッピーかと言ったらどうでしょう?
例えばもし制服が私服になったら、
オシャレに毎日気をつかわなくちゃいけなくなるかもしれません。
「あの子いつも同じ服装だよね!」なんて、
制服を着ていたら絶対言われませんが、
私服であればセンスとか、その人の家計とか、
そんなことも気にしなくちゃいけなくなるかもしれません。
人の目を気にし過ぎるタイプだったら、
自由の方がよっぽど苦しくなるかもしれないですね。
もし学校に登校する時間が自由だったら、
授業をいつから始めていいかわからないでしょうし、
クラスなんてものも意味を成さないでしょう。
クラスが意味を成さなくなったら、連帯感も生まれにくいのではないでしょうか。
共通の経験をし、共通の思い出を持っている友達って、
普段そんなことは意識しないかもしれませんが、
思う以上に大事なのではないかと思います。
もし、学校なんてなければいいのに…と、学校がない自由を手に入れたら(笑)、
もう自分が何者かさえわからなくなるかもしれません。
「私は小学生です。」「私は中学生です。」というのも大事なのではないかと思うのです。
自分が何者か…帰る場所が無いのは不安です。
難しい言葉ですが、学生であるというアイデンティティーも
必要なのではないかと思うわけです。
もし全てが自由になったら、逆にハッピーじゃないんじゃないかと思う理由、
少しは共感できますでしょうか。
ひょっとしたら、大学受験に失敗して浪人生活を送ると
身に染みてわかるかもしれません(笑)。
自分を縛るものが無くなった時、
(もちろん浪人中も親御さんの目や、見えないプレッシャーなど、
完全な自由はないでしょうが(笑))
充実した生活を送るのは逆に難しいと知るのです。
楽しさや楽ばかりを追い求めれば、
本来の目標であったはずの大学合格からは遠ざかるでしょう。
学校がない分、自由な時間はたくさんありますが、
そういった時に、その自由を生かして自分を伸ばせるのは、
意識の高い人、目標をしっかりと持った人、意志の強い人…
そういう人なのだと思います。
別の角度からの話もしてみます。
今、テレビやゲームなどが一切何もない空間に、
あなたと一冊の本だけがあったとします。
その本を読む自由、読まない自由があなたにはありますが、
読むか読まないかを本に迫られた(あなたが考えた)と思えば、
あなたの精神は不自由なのかもしれません。
じゃぁ本がなければ自由かと言えば、確かに自由かもしれませんが、
今度は本さえ読めなくなるわけです。
自由って案外難しくないですか?自由も案外、不自由ではないですか?
自由って常に制限付き、条件付きなんじゃないかなって思います。
でも、こんな声も当然出てくるでしょう。
「ルールで縛ってばかりでは、型にはまった人間しか育たないのでは?」
「自由な発想を身につけさせるには、枠を設けない方がいいのでは?」
「親が敷いたレールの上を進ませたくない。」
心配はごもっともです。
でも、少々窮屈かもしれないルールがあって、
それが自分にとって意味のない窮屈さだったり、
ただ伝統的で保守的なルールだったりでしかなかった時、
そこに反発したり抗(あらが)ったりすることで、
そしてただ反発するのではなく、
新たな価値を産み出すようなエネルギーが生まれることで、
その中から型にはまらない自由な発想が生まれてくるような側面も
あるのではないかと思います。
全て自由にしておいて、何でも自由に考えてごらん!では、
うまくいくようには思えません。
ある程度の、考え方の指針は必要です。
こういう場面ではこういう風に考えるのが自然だ。こういう風に感じるのが普通だ。
というスタンダードが最初からあまりに違っていると、
どう考えるべきか、どう感じていいのかすら、わからないということになります。
入試の国語は、そういった正しい喜怒哀楽の感情を持っているかを
試しているような気さえするのです。
参考
『いま、子どもと親に何が起きているのか?』
(4)自由であることの大変さ (萩原光さんのブログより)