私が担当する授業では“めんどくさい”という言葉の使用を禁止しています。
生徒たちはこの要求に対し、
「めんどい」「めんど」などと言葉尻をアレンジしながら抵抗を見せますが、
私は一切認めないようにしています。
その代わり、“おっくう”という表現は許可しています。
(最近は、めんどり[雌鳥]という表現が
“めんどくさい”の代用としてもてはやされているようです。)
時に“おっくう”というやや古風な響きの連呼が聞かれる場面が授業で見られますが、
不思議なことに、そこには面倒くささは感じられません。
実に積極的な面持ちで生き生きと“おっくう〜!”と叫んでいます。
“めんどくさい”という言葉の発言を授業で禁じている理由、
それはこの言葉の響きに子供社会の閉塞(へいそく)感が凝縮している
ような気がしてならないからです。
子供たちを取り巻く現代の日本社会は、
欲しい物があれば何でも手に入る消費社会であり、
またインターネットやマスメディアを通じて
タイムリーに情報にアクセス可能な高度情報社会でもあります。
生活全般にわたって快適になった分、
知恵を働かせなくても暮らしていける環境で子供たちは育まれています。
ですから、「考える」即「めんどくさい」という思考が膨らみきってしまうのは
当然のことと言えるでしょう。
かつて朝日新聞に「新年日本の皆様へ」というタイトルのコラムが
掲載されていました。
筆者は世界的建築家である安藤忠雄さんでした。
彼は『思考停止を脱しよう』というタイトルで、
物質的な豊かさを手に入れ、世界の経済大国になった日本人が、
先祖が大切にしてきた精神文化や自然環境、伝統を犠牲にし、
やがて個人の責任を放棄し、思考停止に至ったと語っています。
また、教育についても言及していて、
優秀ではあるが情熱が感じられない学生に対して苦言を呈していました。
非常に共感できる内容でした。
このコラムを目にしたとき、
ふとエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』が脳裏をよぎりました。
第一次世界大戦の敗戦により民主主義を手にしたドイツ国民が、
いかにしてナチスドイツを選択していくか等、人間の心理過程を追いながら
自由を担う能力や自由を用いる能力を問いかけている著書ですが、
ここでは自由とその背後にある責任を背負って生きていくことが
人間にとっていかに重圧であるかが切実な問題として提起されています。
つまるところ、自由であるよりも、
責任を放棄して誰かに服従したほうが楽なのでしょうか。
“寄らば大樹の陰”なのでしょうか。
10年ほど前になるでしょうか。ロシアの劇作家であるチェーホフの
『かもめ』の上演を天王洲アイルで鑑賞する機会がありました。
本場ロシアからの引越し公演であったので、感動もひとしおでしたが、
この演劇の中で次の台詞が俳優の口から発せられた時
思わずはっとさせられました。
「彼には何かがある。ただし問題がない」。
1世紀ほど前のロシア社会を背景とした演劇ですが、
チェーホフの作品には時代を超えた普遍的な人間模様が
描かれているように思われます。
私は“めんどくさい”という言葉が蔓延(まんえん)している子供社会に
“本来の意味での”ゆとり教育は機能しないと思っています。
まず、私たち教師がなすべきこと、
それは子供たちの秘めた能力を引き出し実現させるよう導くことです。
学習も道徳も人間的な価値を育むことも、
子供たちの中にある潜在能力によって初めて可能となります。
そして、子供たちが最終的に、
自分が自分を永遠に乗り越えようとする姿勢が身につくよう、
問題意識を持たせていくことが肝心なのでしょう。
問題意識を持って何かをする時必ず伴う困難や労苦を
“めんどくさい”の一言で妨げないように方向づけていく地道な作業を
授業の現場で続けていくことが、
日頃から子供たちと触れ合う私の責務であると実感しています。