思うに任せて読者の皆様に書き綴ります。
今回のテーマは「子供たちの悲しみ」にしました。
近日、教育現場でのつらく痛々しい報道が連日のように新聞やテレビを賑わせ、
教育問題が全国レベルで社会問題化しています。
「いじめ」「体罰」「親と教師の責任」「教育委員会と校長」云々と、
教育に関するキーワードが巷を席捲しているのは周知の通りです。
私はここで評論家めいた意見を書くつもりはありません。
というより書けません。
ただ、ずばっと「私はいじめという行為が大嫌いだ」と表明したいのです。
「いじめ」の是非を巡って議論をする報道番組を見かけますが、
「良い」か「悪いか」がこれほど明白な事柄に対して
話し合う意味があるのでしょうか。
本質を茶化して曖昧にする討論はナンセンスとしか言いようがありません。
私は単刀直入に「いじめは(相対ではなく)絶対にいけない」と、
生徒に言い続けるでしょう。
それは、「自分より弱い人間につけこむ根性がたまらなく卑しく感じる」から、
ただそれだけです。
自分より社会的立場が上、若しくは対等な相手とぶつかり合うのは
「対立」「喧嘩」として認めます。なぜか?そこには「個人の尊厳」が、
つまり、一対一の真剣さと相手を認める心理が働いているからです。
このような対立からは時としてアイデアも生まれ、
新たな価値が生まれることもあります。
しかし、「いじめ」は違います。
個人であれ集団であれ、相手を見下し相手に価値を見出そうとしません。
だから平気で「家畜」(この比喩が適切かどうかわかりませんが)のように
相手と接することが出来てしまうのです。
では、「いじめ」を撲滅するにはどう対処したら良いのでしょうか。
そして、「子供たちの悲しみ」を解消する術とは一体何なのでしょうか。
相手を思いやる「想像力」が決定的に欠如していることが、
「いじめる」という行為(これは子供と大人の別は無いと考えます)の
根底にあります。つまり、相手の苦しい立場が心に描けないのです。
これは「病(やまい)」かもしれません。
そうだとすれば、私たちは早急に、想像することを「教え」なければなりません。
ドイツの哲学者であるカントは
「ヒトは教育によって人間になる」と語っています。
教育されなければ、霊長類ヒト化のままということになります。
ただ、ここで私が言う「想像力」とは芸術的なイメージを教えることではありません。
モーツァルトの想像力など教えようがありません。
相手の苦しみや痛みを自分の痛みとして受けとめる能力を生徒に培ってやりたい、
ただそれだけなのです。
そのためには、どうしても「言葉の力」の養成は避けて通れません。
「言葉それ自体」に深く向き合わせ、語彙の量だけではなく、
他者との「関わり」の中でどのように使いこなすことが最良なのか、
その言葉の「質」を考え、大事に言葉と付き合わせる会話を
日々心がける必要があるでしょう。
「今日、あの子に言ってしまった一言に傷ついていないかな?」
という素直な心のつぶやきが子供に芽生えれば、
後は「ごめん」「悪かった」と言える勇気を、
私たち大人は後押ししてやるだけであると考えます。
「子供たちの悲しみ」につきましては、手があまり進みません。
言葉を残していった子供たちの気持ち、
書い「ている」プロセスの中ではなく、書き「終わった」文章を
きっと読み返していたであろう子供の表情を想像することに
もはや耐えられません。
言葉は、書かれた瞬間からその本人から離れ、一人歩きし始めます。
この件はもう書かないことにします。
最後は明るく締め括ります。
生きている限り、苦しみや悩みは尽きません。
しかし、だからといって不幸ではありません。
不幸というのは、心が縛られ閉塞している状況を言います。
つまり、誰とも心の「つながり」を持てず、
臆病、後ろ向きで絶望感を抱いている人が不幸なのです。
ですから、人との関わり(連帯感)を深め、
臆病を「勇気」に、後ろ向きを「前向き」に、そして絶望を「希望」へと
変えていける転機、チャンスを子供たちが持ち、
またそのような環境を創造できるよう方向付けていくのが、
私たち教師の最大の教育に関する仕事であると思います。