コロナが流行する前までの「演習」は、
解き終わるまで帰らせない(と言う)スタイルだった。
「〇時になったら帰っていいよ」と言っていないので、
もう二度と家に帰れないのではないか、もうママに会えないのではないか、
と不安になって泣く子もいた。
実際、深夜になっても帰らせないなどということはないにしても、
4年生の帰りが9時を過ぎることはあったし、
5年生の帰りが10時を過ぎることもあった。
子どもの帰りが遅くなるのだから、当然、否定的な意見もあった。
しかも、帰りが遅くなるだけでなく、子どもが泣いているのだから、
それを可哀そうだと思う親御さんもいらっしゃった。
「子どもが演習を嫌がるので辞めます」「演習さえなければ…」
と言われる退塾ケースも幾度かあった。
ただ、僕らも、遅くまで子どもを残したいわけではない。
懲罰として残しているわけではないのだ。
そもそも、わざわざ自分たちの仕事を長引かせたいわけもない。
せこい話をするならば、4年生の1日の授業時間が2時間だとして、
本格的に演習が終わらない子は、(15~21時の)6時間くらい塾にいたりする。
いただいているお月謝以上に見ていることになる。しかし、感謝されるどころか、
可哀そうだ!非道だ!鬼!悪魔!と思われているとしたら……
もし生徒が伸びないなら、こんな負担しかない方法を取るわけがない。
さて、『できるようにして帰らせる』のがサーパスの求めているところである。
そう言うと、表現自体はかっこいいが、
できるようになりたい!と思っていない子や、
何もかもを面倒くさいと思っているような子の場合は、
口で言うほど簡単にはそうならない。
また、勉強が得意でない子を、勉強が得意な子にするためには、
勉強以前のものをよくしていくことが必要になるのだが、
それについても、一朝一夕でそうなるわけではない。
例えば、人の話を聞くことができなければ、授業に出ても何も得られない。
ここで難しいのは、子ども自身は「聞いている!」と思っていることである。
すなわち、「10ページを開いて」と指示をしても、その時点でページを開かず、
後から「どこ?」「何ページ?」と聞くような状態であっても、
先生が何かしら喋っていたのは聞いていたというレベルで
「聞いていた!」を自称するのだ。
このレベルで授業に参加しているのだから、
どのような図を描くかとか、どんな式を書くかの指示を、
指示通りに受け取れるはずがない。指示を受け取る訓練が足りていないのだ。
この状態で定時に帰ったとしたら、この子は自分一人では復習すらできないだろう。
結局、親が教えなおすことになるかもしれない。
しかし、塾で問題を解かせると、聞いていなかったことが白日の下にさらされる。
それが嫌なら授業をもっと集中して聞けばいい。
できるまで帰らせないというのも、
できるようにして帰らせるための1つの手段なのだ。