もう2、3年前になるだろうか。
イチローさんが、時代の流れには逆らえないことを認めつつ、
だからこそ大変なんだと警鐘を鳴らした発言が話題になった。
「今の時代、指導する側が厳しくできなくなって。(中略)
(自分が)自分に厳しくして(自律して)自分でうまくなれって・・・」
もちろん、ここで指している厳しさとは、
体罰やハラスメントのような理不尽なことを指すのではない。
しかし、どんなに相手のことを想っての指導であったとしても、
その厳しい指導で傷ついた人からすれば、
その指導とハラスメントは同列のものに感じたことだろう。
つまり、ここの境界線は本当に難しいのだ。
「そのくらいの厳しさは乗り越えられるようになってほしい」
と(指導する側だけでなく)親御さんも思ってくれていたとしても、
我が子の心が折れてしまっていたら、いかんともしがたい。
励まそうがなだめようが、もうやりたくないと言われたら、どうにもできない。
その結果、「辞めます」に繋がってしまうのは、指導していた側も辛い。
辞めさせたかったわけではなくて、伸ばしたかったからこその厳しさだからだ。
また、その子がただ「辞める」だけでなく、
クレームやSNSでの晒し行為にまで及ぶことになる可能性を考慮すれば、
「他人の人生に責任を持とうとして」「厳しくする」のは割に合わないという判断に
(個人としてだけでなく組織として)落ち着くのも必然である。
こういう事情で、「指導する側が厳しくできなくなって」いるのだ。
よそ見をしていて授業を聞いていない子に「ちゃんと聞いて!」と指導しても、
「僕はちゃんと聞いているのに、聞いてないって言われた。」
と家に帰って(ご両親に)言われるのだとしたら、そんな当たり前の指導もできない。
蛇足だが、こういう例を出すと、「指導する側が言い方を工夫したらいい」とか、
「丁寧に言えばいい」などと言う人もいるようだが、
モノを教わる側が、気をつかってもらうのが当たり前になるのも
(将来的にはそれが普通になるのかもしれないが)どうなのだろうと思う。
『厳しい』人は嫌な人で、『優しい』人は良い人という風に子どもは思いがちであるが、
その『厳しさ』には愛情や、一人前にしてあげたいという責任感があるかもしれない。
他方、もしかしたらその『優しさ』は、ただの無責任からくるものかもしれない。
これは、社会に出ている大人ならよくわかるはずであるが、
自分にとってどうでもいい人とは、揉めたくないし関わりたくもないから、
むしろ愛想よく、丁寧に接するものだと思う。
その、どうでもいい人認定された人のように、厳しいことを何も言われなくなったら、
自分で自分を律して頑張り、そして自分で成長しないといけなくなる。
つまり、全て自己責任ということになる。
傷ついている人に、厳しさを耐えて受け入れて、乗り越えろ!というのは酷な話だ。
こうした方がいい!こうすべき!というような安直な結論も出せない。
だからこそ難しい。
自分が100%心地よい環境なんてどこにもないから、ちょっとずつちょっとずつ、
(自分にとっての)居心地の悪さやノイズに慣れていけたらいいのだが・・・
と思いつつ、結局は、自分に厳しい声をかけてくる人のことを信用できるか、
信頼できるか次第なのだろうと思う。
その人の存在を支えとして、『心強く』感じられるかどうかなのだと思う。
(うまくまとめたつもり。)
