中学校の国語の入試問題で、
「中学受験なんかしなきゃよかった」というテーマの文章が出題された。
よく、入試問題は学校からのメッセージ、学校からのラブレターなんて
言われ方をする。どんな子に来てほしいのかが、問題から滲み出ると言われる。
では、この学校はその入試問題にどんなメッセージを込めたのだろう。
2年3年と、あるいは、それ以上の期間、塾に通い、数々の誘惑を制限され、我慢し、
ようやくたどり着いた入試の最初の科目で、
中学受験なんかしなきゃよかったという文章を読まされる。
本の著者は何を書こうが自由だ。
見る角度、立場によっては、中学受験にも負の側面がある。
それを書きたいというなら、書けばいい。
だが、それを頑張ってきた子たちのための入学試験に使うのは、また別の話。
一体どういう意図なのだろう?と考える。
作問した先生にまず意図を聞いてみたいが、入試問題は一人で作るものではないので、
その問題に目を通して、「いいね!今年はこれでいこう!」
と賛同した他の先生たちにも、その賛同した理由を聞いてみたい。
様々な苦労を乗り越えて、受験の日を迎えられたこと自体、
たくさんの人の支えがあったからできたことであって、
その恵まれた環境やご縁、あるいは運にも感謝できる人であってほしい
という思いで選んだ題材なのだろうか。
もし、そういう思いがあるのなら、別の文章で良いはずだ。
あるいは、入試に出題する箇所を工夫することで、それは可能なはずだ。
もっというなら、中学受験をテーマにしていない文章で、
それを読み取らせ、考えさせることも可能だと思う。
中学受験のための勉強をしてきた子たちは、そういう訓練もしてきているのだから。
良質な問題を作れる先生が全て良い先生だとは限らないけれども、
しかし、国語という科目は「情緒」を教える科目であると、
インターナショナルの小学校で日本語を教える先生はおっしゃった。
その「情緒」を教える先生方のモノの見方・考え方を聞いてみたい。
もちろん、こういうものは、どこまでいっても個人の感想である。
気にならない人もいれば、考え過ぎだろうと思う人もいるだろう。
どちらにせよ、入試問題の題材などどうでもいい。
塾講師の感想など、もっとどうでもいい!
と思われる方もいらっしゃるだろう。
進学実績が良くて、勉強や行事の充実度も高いけれど、
それについてこない子には目をかけない学校。
穏やかな雰囲気で、皆が優しそうではあるけれど、
出る杭は打たれるか抜かれるかする学校、そもそも杭が出ないようにしている学校。
どういう思いで子どもと接しているのかわからない学校。
と、3つ極端な話を書いてみた。
「受かりそうかどうかだけ教えてください」ということなら難しくない。
進路指導は難しい。