しつこく想像力について①

『長女を育てているときには、外で騒いで迷惑をかけているよその子に対して、
「この子の親は何をしているんだろう?」と思いながら見ていた。
我が子の躾は、親の努力の結果であると思っていた。
ところが、次に息子が生まれたら、この子は全く親のいうことを聞かない子だった。
今度は自分が、よその子や、その親に向けていた視線を向けられることになった。
ここでようやくわかった。
子どもによる、と。』

このような内容の文章を読んだ。
そして、この文章の続きにはさらに興味深いことが2つ書かれていて、
1つ目は、この子どもの頃の『聞きわけが良い、悪い』は、
大人になったときには、関係がない。
たまたまかもしれないが、この家では弟くんの方が優しい性格の大人になったという。

2つ目は、この文章を書いたお母さん自身の気づきで、
もし、長女しか育てていなかったら、きっと自分は傲慢な母親になっていただろう
というものであった。

 

この文章が事実に基づくものなのか、架空のものだったのかを知るすべはないが、
『聞きわけが良い子』『育てやすい子』=『良い子』で、
その逆は『悪い子』というわけではないし、
『聞きわけが良い子』『育てやすい子』=『親の躾が良く』て、
その逆は『親の躾が悪い』とは限らないというのは、本当なのだろうと思う。
まして、どちらかが当たりだとか外れだとか、そういうことでは全くない。
親が同じであろうと、子どもによる、というのは当然と言えば当然なのだ。
子どもだって、それぞれ違った人間なのである。

だから、我が子が『聞きわけが良くて育てやすい子』だったのは、
たまたまそういう子だっただけのことかもしれない。
たまたま逆のタイプの子が生まれていたら、同じ親が同じように育てたとしも、
『聞き分けの良い子』には育たなかったかもしれない。
ここに登場したお母さんは、結果として、視野の広い素敵な方であったが、
もし長女しか育てていなかったら、そうではなかっただろうと自認されている。

 

ここ最近、想像力について書いてきているが、このお母さんの話でわかるのは、
つまり、経験したことのないものに対して想像力を働かせるということは、
言うほど簡単ではなく、むしろとても難しいということである。

『聞きわけが良くなくて育てにくい子』だったとしても、
親のせいでもなければ、子どものせいでもない。
逆に言えば、『聞きわけが良くて育てやすい子』だったとしても、同様に、
親が優れていたわけでもなければ、子どもが優れていたわけでもない。
そういう立場に「意識的に」立てることが、必要なのではないかと思う。