自分は天才肌でもなければ、地頭が良いタイプでもないから、
人よりたくさん努力しなければならない。
人よりたくさん努力して、ようやく人並みになれる。
と、こういう風に考えて努力を続ける人のことを否定はしない。
むしろ、謙虚に努力を続けられること、それ自体が、
すでに才能だと思うし、素晴らしいことだと思う。
だが、その考えやその姿勢を、子どもに適用するのはどうなんだろう。
努力はした方がいいし、努力を続けることは素晴らしい。でも、
この子は地頭が良くないから、人より努力させるしかない
と決めつけて、その出発地点から勉強量を求めるのは、いかがなものか。
大体、地頭が良いという言葉が、
いつの時期のどのような状態を示すのかもよくわからない。
幼稚園や保育園の時点で、あるいは小学校低学年時に、
この子は賢い!と思われるタイプがいるのはわかる。
では、11歳12歳で、点と点が線で繋がって、急成長を遂げる子は、
地頭が良いタイプには入らないのだろうか。
高校受験を選択し、中学に入るまで勉強らしい勉強をしたことのなかった子が、
初めて勉強に取り組んだ結果、パッと視界が開けたように、
世界の見え方が変わる場合はどうなのだろうか。
その子たちは、(その子と)その後に出会った人からは、
地頭の良い子と思われる可能性が十分にあると思う。
つまり、地頭は生まれつきのものではなくて、
後からでも良くできるということになるのではなかろうか。
とすると、「この子は地頭が良くない」と大人が勝手に決めつけて、
ただただ量を反復させるだけのやらせ方を選択することで、
かえって考えることができない、応用が利かない、
初物に弱いタイプに育てあげてしまうことって、あるのではないか。
自分で問題を読んで、色々試行錯誤しながら手を動かして、
でも、なかなか正解にたどりつかないから、テストでは点数を取れない、
そんな日々がしばらく続いたとしても、
だからといって、考えることを放棄して、
解法を暗記するような無思考の方法を繰り返していると、
本当に考える力の無いまま大きくなってしまうのではないだろうか。
今年、卒業した生徒で、
算数の力はその学年の中で上位5位以内に入っていた子の話であるが、
3年生のときのこの子は、かけ算、割り算の筆算ができなかった。
(サーパスの)プリントを終わらせた順に帰れるシステムで、
プリントが終わっていなくて、時間が来ても帰れず、泣いているような子だった。
その時点で、類似問題をひたすら解かせて解法を暗記する
という方法をとっていたら、ここまで伸びなかったかもしれない。
ある程度、大きくなった人が、自分は他人より努力するしかない!
と考えるのは別に良いけれど、それは自分のことに止めてもらった方がいい。