前回のブログの最後で、
『できる』というレッテルを貼られると、
『できる』扱いされた子がプレッシャーを感じると書いた。
蛇足ではあるが、もう少し詳しく書こうと思う。
一度『できる』と思われてしまったら、『できない』自分を見せることを、
恥ずかしく感じてしまうということは、勉強以外でも大いにありえる。
例えば、サッカーをしている姿を『かっこいい』『運動神経がいい』
と言われた男の子が、実は泳げないような場合、
『かっこ悪い』自分を見せることになる水泳の授業を嫌う可能性は高いと思う。
何とか理由をつけて、水泳の授業を休もうと画策するかもしれない。
褒められたサッカーにしても、自分より上手い人が現れてくると、
もうやりたくない。辞めた!と、なるかもしれない。
『できる』と思われてしまったことで、
本当はわかっていないことを、わかったフリをしてごまかしたり、
間違っている答えに〇をして、点数を高めに出したり、
カンニングをしたり、ウソをついたり…どんどん良くない方向に進んでいく。
そういうことがある。
ダメな自分を見せたくない。見せてはいけない。そんな風に考えて、
自分はそんなに『できる』子ではないことを知りながら、
『できる』子であり続けようとするのである。
人の評価を気にしないでいられるなら、気にしなければいい。
だが、一切気にしないでいられるかといったら、それはなかなか難しい。
まして、幼い頃から、『できる』と教育されてきた子にとっては、
『できる』子であろうとすることが、もう生き方の根本だったりする。
昨今、子どもは「褒めて伸ばす」が主流である。
しかし、例えば「頭いいね」「よくできたね」「いい点数だね」
のような結果だけを褒める褒め方だと、
難しい問題にチャレンジしようとしなくなる!という研究結果がある。
簡単な問題、できる問題であれば、それを解き終えた時に褒めてもらえるが、
できそうもない問題、難しそうな問題に対しては、
解けなかった場合を想像して、手を出さなくなる。
また、そうはいっても、いつかは難しい問題に直面する。
そこで解けない自分、『できない』自分と向き合わなくてはならなくなった時、
無気力になったり、ヤル気を失くしたりする。
という研究結果である。
蛇足のさらに蛇足だが、親は我が子のことを『できる』と信じる。
それはいい。だが、それが行き過ぎると、
本当はもっと『できる』はずだと、もっとを望む。
『できる』はずなのに『できない』現実があると、原因が何なのかと探し始める。
場合によっては、それで子どもが苦しむことがある。
『できない』ことがあっていいと思うのだが。