「鋭い感性を持たない人間は、少なくとも持とうとしない人間は、絶対に一流にはなれない」
は、元楽天監督、野村克也氏の言葉である。
「一流」の定義は何か。
誰もが「一流」を目指すべきなのか。
そもそも野村氏の言葉が絶対的に正しいか。
そんな話をしたいわけではない。
ただ、どうせ自分は「鋭い感性を持たない」から!と居直って、
「持とうとしない」人であり続けるよりも、
「鋭い感性を持たない」なら、せめて「持とう」と努める人であった方がいいとは思う。
僕が大学1年になって塾の講師という仕事(アルバイト)を初めてした時、
その塾の塾長は、このブログでも何回か登場したことのある『おかぽ』先生だった。
ある日、校舎の廊下にある蛍光灯の1つが切れかかっていたのだが、
僕はそれに気がついていながら、その蛍光灯を取り換えなかった。
すると『おかぽ』先生は、生徒が皆帰った後で、
その日出勤していた先生に対してこんなことをおっしゃった。
「廊下の蛍光灯の1つが切れかかっていたの、気づいた?」
(気づいていた先生と気づいていない先生が半々だった)
「気づいていたのなら、なぜ換えなかったの?」
「気づかなかったのなら、気づけるようになろう!」と。
気づいていながら見て見ぬフリをした(そんなつもりはなかったけれども、
社員の誰かが取り換えるだろうと思ったことは否定できない)
のもいけないけれど、気づかなかったのもいけない!という風に僕は解釈した。
冒頭の「持とう」とする意識はとても大切だと思う。
国語の文章を読んでいる時に、
そこで出てきた初めて目にする語句の意味を調べたいと思う意識、
それを自分でも使ってみようとする感覚、
面白がって楽しめる感性…。
それらを「そんな言葉知らない」とか「興味ない」とか、
そういう風に片づけてしまうのでは味気ない。
「算数苦手」「ひらめかない」「無理」ではなくて、
じゃぁ「どうやったらひらめくのだろう?」と思ってみて欲しい。
ひらめく人は「つるかめ算になるんじゃないか?」と最初からアンテナをはっていたり、
「無理」だと思わずに問題をよく読んでいたりするから、ひらめくのである。
「気がつく」力、そういう感性を持っていないなら、
せめて「持とう」と意識した方がいい。
言葉上は同じように聞こえるかもしれないが
「空気を読む」力を磨いて欲しいというのではない。
(むしろそういった能力ばかりを求める昨今の風潮には僕は反対である)
ひょっとしたら「気がつく」人は「気がつかない」人よりも気苦労が増えるかもしれない。
だけどアルバイトをしていたあの日の僕には、
『おかぽ』先生は間違いなくかっこいい大人だった。