コスパ・タイパと対極にあるもの

近頃、そこかしこで「コスパ」「タイパ」という言葉を目に(耳に)する。
教育業界でも同様で、例えば、公立中学から公立高校に進学し、
大学受験で国公立に入ったら、最高にコスパがいいと言われるし、
映像授業などを活用し、さらにそれを倍速視聴したりして時間を節約するのを、
タイパのいい学習と言うそうである。
要するに、できるだけお金をかけずに、そして効率よくしていくことが、
あらゆる場面で求められる時代になったと言えるのだと思う。

しかし、先日も書いたが、本来「教育」には効率を求めない方がいい。
一見、非効率で遠回り、無駄に見えることにこそ、価値があると思う。

 

先の倍速視聴の話は極端過ぎるが、コスパ・タイパ重視の例として、
「何をやったら伸びますか」「何回やったらいいですか」のような、
すぐに結果に表れることを優先した、効率のいい勉強方法を求める質問は多い。
もし、一問一答のような範囲の決まったテストで点数を取らせるだけが目的なら、
上の質問に答えることは比較的たやすいが、学力を伸ばすことを目的とすると、
この質問への回答は途端に難しくなる。

大体、この問題集をやりさえすれば学力が上がるなんて、
そんな都合のいい話があるわけがない。
(何回も繰り返し勉強する必要がある人もいれば、1回で身につく人もいるし、
最初から回数をこなそうとしているせいで、何回やっても身につかない人もいる。)

また、ニュースで流れている数々の出来事のうち、どれ1つ取っても、
それ単体で問題点を理解したり解決できたりするわけではなくて、
歴史的背景も含め、様々で複雑な事情が絡み合っていることをまず知ることが、
それに必要な第一歩であったりすると思う。
すなわち、疑問に思ったことをいちいち調べたり質問したり…
という、一見遠回りで地道な作業の繰り返しによって、
目の前の1つの出来事の問題点をようやく理解できるようになるのだと思う。

さらに付け加えると、勉強において、模範解答というものは、
大人が用意した最もスッキリと(効率化)した答えであるが、
その答えをおぼえることが勉強なわけではない。
その答えを求めようとしたときの試行錯誤それ自体や、
そのときのたくさんの失敗が糧となって、人間的に成長していく…
そういうことが勉強なのだと思う。