経験を伝えることが役に立たないどころか、逆効果である可能性について考える冷静さを持ちたい。

もう20年ほど前になるが、(神奈川県の)高校受験の指導もしていた頃の話。
あの頃の神奈川の公立高校で出題される入試問題は、基本的に全学校共通で、
きちんと勉強している子にとっては、差のつかない簡単な問題だった。
一番上のクラスなら、9割こえて当たり前。その中でも特に英語と国語は、
2問ミスで「やらかした感」のあるほど簡単だった。

国語は傍線部の近くを読めば、大体答えが書いてあったし、
もっと言ったら、問題文を読まずに設問の選択肢だけ読んでも答えは絞れた。
英語は英語で、毎年似たような問題ばかり出るので対策しやすく、
だから、どちらの科目も、さほど問題なく8割は取れた。

 

だが、この話は20年近く前の話で、今とは状況が異なる。
トップ層は、相変わらず9割の点数を取って当たり前なのかもしれないが、
問題の質としては、どうやらかなり難しくなっているようだ。
(テーマにしたい内容が別にあるので、ここの裏付けは弱いです。すみません。)
とすると、20年近く前に神奈川県の公立高校を受検した人と、今の中学生では、
受検勉強に求められる質が変わってくるはずだ。

つまり、何を言いたいかというと、過去の自分の経験をもとにアドバイスをしても、
そのアドバイス自体が見当違いということもありえるということである。

 

例えば、神奈川県の公立中学に通う生徒に対して、
「学校の勉強さえちゃんとやっていれば、塾には行かなくても…」
「部活を3年生までやっても、引退した後、一生懸命やれば…」
というアドバイスでは、もううまくいかない可能性がある。さらには、
「国語なんか、普通に生活していればできるでしょ!」
というアドバイスは、もはや的外れも大外れである。

 

ついつい自分の人生経験をもとに考えてしまうこと、話してしまうことがあるが、
それはその時代、その状況でのみ可能だったことなのかもしれない。
自分の経験から離れて、客観的に物事を見るなんて、
究極的には、誰にもできないのかもしれないと思ったりもするけれど、
だからこそ、自分が正しいと思っていることが、
ひょっとすると、バイアスのせいかもしれないと疑ってみるような、
そういう冷静な感覚を持っておいた方がいいと思う。