『おやときどきこども』鳥羽和久著

『先日、中学受験の合格発表から数日しか経っていない親子が教室にやってきて、
春からの中学部の入塾についての面談をしました。
そのときに、お母さんがひとり泣いていました。
「うちの子は人生で初めてがんばったのに、結果は不合格だったんです。
とても不本意な結果で、私、もうかわいそうで……。」
そう言いながらお母さんは本人の前で泣いていました。
私はお母さんの涙を見ながら、残酷な親だなと思わずにはいられませんでした。

もちろん彼女には泣かずにいられないような苦しみがあったのかもしれません。
でも「うちの子がかわいそうで」と言いつつも、
お母さんはかわいそうな自分のために泣いているようにしか私には見えませんでした。
そして、お母さんのとなりに小さく座っているこの女の子は
いま何を感じているだろうと考えて、私はつらい気持ちになりました。
だって受験に合格できなかったのは、お母さんではなくてその女の子なのですから。
私がもし合格していたら、お母さんは泣かずに済んだのに。
女の子の小さな心は、そうやって自分を責めていたかもしれません。


子どものことが「わかる」と思っている親は、
こんなふうにひどいことを無自覚にやってしまうことがあります。
子どもに同情して簡単に涙を流す。
愛情という武器を使って子どもの性格や感情を決めつける。
そうやって自分がいかに子どもに対して専制的なふるまいをしているか
ということに気づきません。


一方で子どもたちは、自分を犠牲にしてまでこうした
「子どものことがわかる親」を守り続けます。なぜなら、彼らにとってそれは
自分に差し向けられた愛情を受け入れることと同義だからです。
でもそのせいで親はいつまでも反省する機会がないし、
子どもたちはいつまでも傷つき続けます。
子どもは「自分のために泣いてくれている親」に対して
刃向かうことなんてできません。その涙は子どもにとっては呪いなのに、
それを子どもが親に訴えることはありません。』