W杯 日本代表の初戦が終わって…(独り言)

サッカー日本代表のワールドカップ初戦は残念な結果でした。

チーム(組織)としてまとまって戦えれば十分勝機はあると思っていました。

ここしばらく続いていた、先に失点する悪い癖も出ずに、先制点を取りました。

その先制点の本田選手のシュートは、

思わず立ち上がって吠えてしまうほど(笑)見事で、

「やはり本田!大舞台に合わせて来たか!」と感動しましたが、

1点取った後もまだまだ初戦の難しさは続いていたようです。

お互いにミスしあっていて、試合の形勢がどちらに傾くかわからないまま後半を迎え、

コートジボアールからドログバ選手が出てきてから、

立て続けに失点して逆転されてしまいました。

初戦が大事。初戦が一番難しい。と、よく言われます。

でもわかっていても難しいんですよね。

どんなに力があっても、それを普段通り発揮するのが難しい。

プロのサッカー選手とはいえ、子どもの頃から憧れていた舞台に初めて立って、

普段通りのプレイができるかと言ったら、それは難しいですよね。

4年に1度しかないワールドカップ。

たった23名しか選ばれない国の代表。

プレッシャーも相当だったでしょう。

頭でわかっていたことに体がついていかなかったとしても不思議ではありません。

中学受験の2月1日を経験した子になら、少しは伝わるかもしれません。

さてさてドログバ選手。189cm。91kg。見た目だけでも圧倒的な存在感です。

ドログバ選手と長友選手が並んでいた時は、

大人と子どもくらいの身長差に驚いた人も多かったに違いありません。

そのドログバ選手は人間としても圧倒的に素晴らしい人です。

幼少期については詳しくありませんが、

ドログバ選手の父親はきちんと勉強できる環境を望んでいたので、

ドログバ選手が5歳の時にコートジボワールからフランスへ移住しました。

叔父さんがサッカー選手であった影響で、

勉強だけでなくサッカーも習っていたようですが、

そもそもサッカー選手になるためにフランスを選んだわけではないようです。

それでもサッカー選手として頭角を現します。

そしていざ国の代表選手に選ばれる時、

ドログバ選手はコートジボアールかフランスかを選べたようです。

5歳からフランスで過ごしていたらフランスを選んでも不思議ではないと思います。

給与や待遇も含めて、フランスの方が安定してそうなイメージがあります。

しかし彼は生まれ故郷のコートジボアールを選びました。

そこには、こういう背景がありました。

コートジボワールでは2000年頃から内戦が始まり、

政府派の南部と反政府派の北部に分裂。

「北部の住民は真の国民ではない」という南部の政府派の思想に反発して、

「南部出身」のドログバが、みんな同じ「Drogbacite=ドログバシテ」なのだ

と主張する運動を開始します。

そして2005年10月、翌年にドイツでおこなわれるワールドカップに

初めての出場を決めた試合の後、

ドログバは更衣室でチーム全員と一緒に、

生中継のテレビカメラに向かってひざまずき、内戦をやめるよう訴えました。

「コートジボワール市民の皆さん、北部出身の、南部の、中部の、

そして西部出身の皆さん、私たちはこうやってひざまずき皆さんに懇願します。

許し合ってください。コートジボワールほどの偉大な国が

いつまでも混乱し続けるわけにはいきません。

武器を置いて、選挙を実施してください。そうすれば全てが良くなります」

これがきっかけでその後、1週間しないうちに内戦が一時停戦となり、

2007年には和平協定が結ばれたのだそうです。

つまりサッカーコートジボアール代表は、平和の象徴でもあるわけです。

そんなドログバ選手のいるコートジボアールなので、

日本が負けたのは残念なんですけれど、

ついついコートジボアールにも頑張って!って思うのです。