他意はない

子どもの成績を伸ばすために、親御さんが塾に求めるアドバイスは、
何をやったらいいか?何回やればいいか?何時間やればいいか?
のような具体的なものになりがちである。

しかし、仮に3回繰り返して欲しい課題があったとして、
3回繰り返したら、全員等しく学力が上昇するかというと、当然そんなことはない。
5回繰り返さないと力にならない人もいるだろうし、
何回繰り返そうが、全く身にならない人もいる。
その子のその時の実力によっても効果は違うし、取り組み方でも違いは出る。
効果のあがらない勉強方法を続ければ、疲弊するだけだし、
取り組む姿勢が悪ければ、良くないものが身に着くだけである。

だからサーパスは、学力が伸びていかない原因になってしまっている
子どもの姿勢だとか、考え方だとか、性格だとか、
そういったものにまで口を出す(うるさい塾である)。

ここでわかっていただきたいのは、例えばだらしない性格の子がいたとして、
「だらしないですね。」と言ったその言葉は、
その子を傷つけたいものではないし、人格を否定するものでもないし、
まして、よくもまぁこんなだらしない子に育てましたね!
なんて生意気な批判でもない、ということである。

罪を憎んで人を憎まずとは、ちょっと違うかもしれないけれど、
そのだらしなさが、勉強をする上での障壁となっているのは事実なので、
勉強の時だけでも、そのだらしなさを出さないように意識してね!
と言っているだけのことである。

だが、そうは言っても、この一言で傷つく人が出てくる。
不快に感じる人が出てくる。そして、
こんな風に育てようと思ったわけではないのに…
なんで、こんなこと言われなきゃいけないの?
と、自分自身を否定されたように思う方が必ず出てくる。

でも、例えば僕の両親も、
僕がこんな風に育つなんて、きっと思っていなかったと思う。
こうなって欲しい!と望んでいたことは、きっとあっただろうけれど、
いつからかどこからか、その理想から僕が逸れていったのだと思う(苦笑)。

僕の性格や価値観に、両親が関係している部分ももちろんあるけれど、
両親のどちらにも全く当てはまらない、他からの影響で形成された部分もある。
自分特有の、それこそ先天的に持っていたのでは?と思うような部分もある。
とにかく、僕がだらしないとすれば、それは両親のせいではなくて、
僕自身の問題である。

(直せるなら)直したい良くない部分は、きっと誰もが持っている。
そうは言っても直せないんだよなぁ…と、半ば諦めていたりもする。
しかし、家ではずぼらでおっちょこちょいだけれど、
会社では仕事のできる人で通っている人がいるように、
場面場面で気をつければ、それを抑えることはできると思う。
決して人格を否定しているわけではないのである。