ことばのちから

先日のこと。

4年生たちが、サーパス文庫の伝記の本を教室に持ち込んで読みふけっていた。

よく見かける光景である。

そんな中、どの本を選ぼうかと思いあぐねていた生徒がいたので、

「源義経はどう?この人は、牛若丸のことだよ。」

とコメントをつけて勧めてみたのだが、

返ってきた言葉が「牛若丸って誰?」。

そうか、最早「牛若丸」は世代を超えた常識ではなくなったのだなと、

少々もの悲しい気分で、お迎えにいらっしゃっていたお母様たちにもお伝えした。

最近、「桃太郎」と「金太郎」、「浦島太郎」の区別がつかない生徒たちも

ちらほら見受けられる。

これは童話に限ったことではない。

知る知らないということではなく、もっと広い意味で、

ことばを「伝承」していくという意識が希薄になってきている感は否めない。

国語の授業をしていると、ことばの語感が身に備わっている生徒と

そうでない生徒では、文章の理解度が断然異なる。

例えば、新出語句が文中に出てくると、

まずは辞書を引かせて意味を確認するのだが、

その際、ただ単に辞書の意味をノートに書き込んで満足する生徒と、

「先生、こんな感じで使うんでしょ。」

と例を挙げながら「使いこなそう」とする生徒とでは

当然のことながら差が出てしまっている。

辞書に書かれてある意味を、小学生なりに理解できることばに「変換」し、

「使いこなす」中で自分のことばにできる力こそが、真の語彙力と呼べる。

例えば、「客観的」ということばを「知って」いても「使えない」のでは、

文脈の中で文意を考える手助けとはなりえない。

まして「記述」となると読解の比ではない。

トリビア的で、一問一答にしか対応できない「クイズ脳」の持ち主は、

得てして記述の手が止まることが多い。

インプットでもアウトプットでも、

「使いこなせることば」という意味での「語彙」力の差が、

国語力の差と言っても過言ではないだろう。

とはいえ、生徒たちはまだまだ経験値が低い。

大人の責任も大である。

私たち自身がまず「ことばとの格闘」をしているのであろうか?

こう書きながら、自らの心が痛む。

そこで私たち大人がなすべきことは、

生徒と共にことばのやり取りを行う時間を極力増やすことではないだろうか。

大人が会話の中でことばの使い方を、身をもって示し、語ることで、

単なる断片的な知識ではなく、文脈の中で活用できる力を培うことが可能となる。

そして、「ことわざ」「慣用句」「四字熟語」といった受験知識を

テキストで学習するだけではなく、

生活の中で折々に会話に織り込んだり、

ニュースなどからダイレクトに伝わる時事ネタを「耳学問」として学ばせ、

キャスターのように説明させたりするのも語彙力向上に役立つはずである。

大学受験も評価基準が大きく変わろうとしている。

解答が1つとは限らない問題を解決する学力が求められている。

そんな時代だからこそ、「生きたことば」の習得を日ごろから意識して、

生徒たちと大人が双方向で関わっていく必要が大いにあるのだろう。