おぼえるものではないから、忘れるものではない

「場合の数」という単元の問題に対して、

式で答えを求めるのか、樹形図を書く(または1つ1つ書き出していく)のか、

「どうやって区別するの?」という質問をされることがある。

どっちで解くのかを判断する基準は何か?という質問なのだが、

こういう時は絶対計算で、そうじゃない時は書き出すしかない!

と、パターン化したい気分はわかる。

パターン化できれば、考えずに済む。

だけど、そんなの『手を動かしてやってみる』しかないと思う。

式で答えを求められる問題だったとしても、

どういう方針でいったら解けるのかに気づくまでは、

地道に1つ1つ書き出す作業が必要となるし、

逆に言えば、書き出しているうちに、あ!これ式でいける!と気づくことも多い。

1つ1つ書き出すなんて面倒だ。パッと計算で出せないものか。

それで、1本の式で答えを出せたら、そりゃシンプルで楽だろうけれど、

でも、『この式では網羅できていないことがあるんじゃないか』とか

『この式ではダブって数えてるものがあるんじゃないか』とか、

そういったことを考えることが大事なんだと思う。

それを面倒に思うような精神だと、「場合の数」は解けない。

それを面倒に思うような人や、作業が雑になるような人をふるいにかけたくて

「場合の数」を出題しているとも考えられるし、

「場合の数」を学ばせる理由は、例えば将来何かの仕事に就いた時、

あらゆる条件を整理しながら思考できる人になって欲しいからとも考えられる。

また、図形の問題で「補助線」を引かないと解けない問題がある。

その補助線をどこに引くかで、解けるか解けないかが決まる。

どこに補助線を引けばいいか?どうやったら正しい補助線を引けるようになるか?

これも『手を動かしてやってみる』しかない。

もちろん、ある程度の定石(じょうせき)みたいなものはある。

だけど、1本引いてみて解けるかどうかやってみる。

できなかったら、また違う補助線を引いてみる。

そうやって試行錯誤、失敗を重ねてできるようになる。

時には、普通じゃ到底思いつかないような補助線を引かなきゃいけないこともある。

確かに難しいが、色々試すのを面倒に思って手を動かさないでいると、

その線はいつまでたっても引けない。

どこに線を引くのか聞いてしまえば、ただの計算問題になってしまう。

あれこれ試す。見方を変えてみる。イライラしないようにする(笑)。

それが大事だと思う。

「なんでそんな解き方思いつくの?」と聞かれることがある。

それは、僕の頭がいいのではなくて、経験値が違うだけのこと。

小学生より長く生きている分、解いた問題量がすでに違う。考えてきた量が違う。

ただそれだけのことだ。

そして、(僕なんかじゃ敵いもしない)頭のいい人でさえも、

やらなくなれば勘は鈍る。解けたはずの問題も解けなくなる。

だから、きっと努力している。

そしてそれは、算数や数学を暗記科目のように捉えて、

解き方を忘れないようにしているのではない。

初めて目にするような問題を前にしても楽しく戦えるように、

考える訓練をしているのである。