東日本大震災から3年たちました。

日々、特別な何かをしているわけでもないのに、

この日に限ってもっともらしいことを僕なんかが語るのは違うようにも思いますが、

そうかといって素通りすることもできないので、

二人の方の言葉を紹介しながら書いてみます。

福島県相馬市の立谷市長が

「いま、社会に強い人と弱い人がいるとしたら、

いちばん弱い、力のない人に合わせて、世の中をつくっていかなきゃいけない。

行政は弱者を救済していかなきゃいけない。

なぜかというと、自分が強い立場にいるか、弱い立場にいるかというのは、

ただの確率だから。あるとき大病をわずらうだけで立場は変わる。

それは社会が持ってる確率なんです。

つまり、たまたまその人はそこにいる。

誰もが弱者になる可能性がある。自分は大丈夫でも、子、孫、ひ孫、

いつ立場が変わるかわからない。だとしたら、つねに、

弱い人たちのことをみんなが自分の問題だと考えないといけない。」

と話されていました。

3.11だけが特別なわけではなくて、

翌日の長野の地震や、阪神大震災、中越沖地震でも相当な被害が出ていたわけです。

ビートたけしさんも言っていましたが、

「こういう大変な時に一番大事なのは「想像力」じゃないかって思う。

今回の震災の死者は1万人、もしかしたら2万人を超えてしまうかもしれない。

(中略)

じゃあ、8万人以上が死んだ中国の四川大地震と比べたらマシだったのか、

そんな風に数字でしか考えられなくなっちまう。それは死者への冒涜だよ。

人の命は、2万分の1でも8万分の1でもない。

(中略)

一個人にとっては、他人が何万人も死ぬことよりも、

自分の子供や身内が一人死ぬことのほうがずっと辛いし、深い傷になる。

残酷な言い方をすれば、自分の大事な人が生きていれば、

10万人死んでも100万人死んでもいいと思ってしまうのが人間なんだよ。

そう考えれば、震災被害の本当の「重み」がわかると思う。

2万通りの死に、それぞれ身を引き裂かれる思いを感じている人たちがいて、

その悲しみに今も耐えてるんだから。

(中略)

逆に言えば、それは普段日本人が

いかに「死」を見て見ぬふりしてきたかという証拠だよ。

海の向こうで内戦やテロが起こってどんなに人が死んだって、

国内で毎年3万人の自殺者が出ていたって、

ほとんどの人は深く考えもしないし、悲しまなかった。

「当事者」になって死と恐怖を実感して初めて、心からその重さがわかるんだよ。」

「当事者」になって初めてわかるのを待つのではなくて、

「想像」する力、「慮る」力が大切だと思います。

軽々しく、気持ちが「わかる」なんてことを言ってはいけませんが、

自分ごととして考えることは、人に対しても重要な意味を持つはずです。

毎日毎日、自分ごととして考える必要はないでしょうし、

そこまでしていたら、それはそれで参ってしまいそうです。

でも今日くらいはそういったことを考える機会であってもいいのではないか。

そんな風に思います。