生きること・記憶すること

先日、といっても既に一ヶ月ほど前のことだが、

季節外れの桜の開花がニュースで取り上げられた。

その際にふと、「さまざまの事おもひ出す桜かな」という芭蕉の句が思いだされた。

これは芭蕉が郷里の伊賀上野を訪れ花見をした際に詠まれた句である。

咲き誇る桜を前に彼ほどの教養人の脳裏を

どのような過去の映像が駆け巡ったのか

凡人である私には理解し得ないが、

ただ「おもひ出す」行為ぐらいであれば私にも芭蕉の真似が出来そうである。

ところで、思いだす行為は「記憶」と密接に関連していることは

敢えて言うまでもない。

そして、記憶という言葉は、「どうやったら覚えられるの〜!先生!」

と嘆きにも似た生徒の叫びを日々耳にしている社会科教師にとって

厄介なもの以外の何物でもない。

考えてみると確かに、記憶力の個人差は体験として実感できる。

齢を重ねるにつれて記憶力が減退するとはいうものの、

自分が小学生の時から覚えが悪い友人がいれば

驚異的なスピードで暗記して澄ました表情を浮かべている嫌な友達もいた。

ニーチェのような哲人が

「人間は動物のように忘れることができなくなった動物であり、忘却の忘却」

が人間の定義だと言ってくれているのが救いであった。

記憶とは一体何であるか。心理学や認知科学では、

情報の入力→貯蔵(蓄積)→再生の流れを記憶の仕組みとして捉えている。

つまり脳が情報処理マシンで記憶がメモリという考えである。

生徒にとっての「なかなか覚えられない」とは入力の問題であり、

「答えを思い出せない」とは再生の問題となるが、

これらのメカニズムが解明されたからといって生徒が救われるわけではない。

では、具体的にはどのように対処すべきか。

人間の能力には、空間の中にあるばらばらのものを捉える能力(直感)と、

三角形のような普遍的なものを捉える能力(概念)がある。

私たち大人が論理的に考える時には言葉を使用するが、

言葉は記号なので概念の方に属する。

一方子供たちはどちらかと言うと直観の世界で生きている。

言葉とそれらが表している具体的なイメージが連想できないこと、

これが記憶を子供たちから遠ざけている大きな要因である。

であるなら、大人として先ず子どもの目線を理解し、

柔軟な感性を持っている時期に培った直観力と言葉の間に

橋渡しをする作業が第一である。

また、子供たちには日常生活を発話中心に生きている。

いわば現在進行形である。

ところが目にする文字はすでに書かれた「過去」のものである。

そこで、声に出し耳で聞いて、時にはジェスチャーを交えながら五感をフルに活用し、

書かれた文字を現在進行形に置きかえさせる作業も欠かせない。

同時に、過去を振り返り確かめ、実際に表現してみることで

知識を再度整理する姿勢を子供たちに身につけさせる作業も、

再生力を高める上で重要である。

このように、私たち大人は子どもの中を流れる子ども独自の時間を考慮して

語り方を工夫する必要があるのではないか。

私が記憶について想うとき、密告がはびこり家族さえ信じられない

旧ソ連の体制の中で体制批判の詩を書き記すことが出来ず、

己の頭脳に記憶し続けたアンナ・アフマートワという女性詩人が

どうしても思い浮かぶ。

彼女にとって記憶とは「生きるための記憶」であった。

私たち一人一人の中に、客観的時間とは異なった時間が流れている。

それは、過去→現在→未来という形式で現れる。

記憶は過去に属するものだが、ベルグソンという哲学者が

「現在の意識とは記憶である」と主張しているとおり、

私たちが現在を生きる上で記憶というものが

いかに重要な位置を占めているかが伺われる。

自分自身の過去を、外側ではなく自分自身の内部の中に想起し、反復することで

私たちのアイデンティティは形成されていく。

記憶は人間の生き方そのものとも言える。