「知っている」ことが「考える」ことの邪魔をする。

あくまでも一例ですが、円の周りの長さや面積を求める時に使う円周率。

小学校の時は、大体3.14である場合が多いですね。

3.1415926535…と十桁くらい暗記している人もいるかもしれません。

別にそのこと自体を悪く言うつもりはありません。

なぜなら、興味を持っておぼえようとした結果、

別にその数字自体が直接何かの役に立たなかったとしても、

頭を使った恩恵(脳の活性化)はあると思うからです。

問題はそこではなく、例えばこの円の授業で、

「じゃぁなんで円周率は3より大きくて、4より小さいんだろう?」

なんて問いかけをした場合に、

3.14と知ってしまっている子の中に、

「だって3.14は3より大きくて4より小さいんだもん。」

と、まず答えありきの考え方をしてしまう子が出てきてしまうことです。

こういったことは、よくよく起こります。

自分たちが学生だった頃、何か疑問に思ったことを解決するためには、

図書館に駆け込んで、どの本を調べれば載っているのだろうと、

片っ端から本を開いていくようなことがありました。

そのうち段々と慣れてきて探すセンスも磨かれていき、

必要な本をうまく短時間で探し出せるような力が身に着いたり、

何度も調べなくて済むようにとメモを取っておいた方が得策だと気づいたり、

色々な工夫をしていたように思います。

今はパソコンでググれば(調べれば)一発かもしれませんね。

あっという間に必要な知識を得ることができます。

では現代人はそれだけスピーディーに知識を得られる分だけ、

より多くの知識を得て、賢くなったのでしょうか。

考えようによっては、不便な昔の方が

知恵の身に着く環境だったのではないかと思うわけです。

中学受験のための勉強が、憧れの学校に入る(目的)ための手段でしかないなら、

全て暗記してしまうような詰め込みの勉強もアリなのかもしれません。

でも、それじゃぁもったいないって思ってしまうのです。

知ったら(全部わかったつもりになって)終わりって、

なんだか薄っぺらいじゃないですか。